エロスとタナトスの狭間で。レイチェル・ロザレンの作品にみられる 沈黙の追及

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プリシラ・アランテス

創生時代には人類は3種類のジェンダーによって構成されていたとあるギリシア神話は伝える。それは、雄と雌と両者の特徴の結合体である完全なる存在、アンドロジンであった。アンドロジンは手足や器官を二重に持った集合の小球体の一体性で、恐ろしい力と対抗力に恵まれていることから、神々に背くことになった。ゼウスはこの問題を解決するために、この存在を二つに切断することにした。原型を失った分割体は相互に名残を感じ、一体化を只管求め続ける。プラトンが「饗宴」で述べるように、これはエロスの神話的起源でもあるかもしれない。失われた連続性へのノスタルジアに関連する限りない追及の動き。欠陥された部分を求める欲望。ソクラテスは「饗宴」でこう語る。「欲求するものはいつだって必ず自分の身に欠けているものである。現在備わっているものを欲求するということにはならないのではないか」。


レイチェル・ロザレンの作品にはこうした視点から、「他」を失った統合性を限りなく求め続けるノスタルジアから構成される表現手法が見られる。ビデオ、ビデオ・ インスタレーションを初め、その他の表現手段をも通じて、あらゆるメディアの操作を通して、身体がテーマとなる。ロザレンの制作歴は2000年に始まり、日本滞在中に仕上げた「日本日記」、「東京イン」、「オタク」、「レッド・ドリームス」などの作品群にはエロスが溢れ出るボディが主体となっている。その映像には流動的な波形の映像が重複し、ドライで瞬間的なカットに、音響と文字による効果が積み重ねられ、ハイブリッドな言語による身体の詩が誕生する。その身体は失われたものを追求するノスタルジアに覆われ、欲望に満ちた、呼吸と期待、狂気、パッションと過剰と逃れる「他」を追求する脈打つ身体である。

「かがやき」、「no_places」、「 IMMORTALITÁ」で語られる身体はそれである。革命的な都市的美学を展開するその映像作品は都市領域の物体を破壊し、ポスト・モダンな廃墟に変貌する。建築的モニュメントや高層ビルがエロスの身体の支持体となる。超現代の都市はロザレンの映像の中では流動的なミュータントな地帯を発生させ、その不安定な地理学の中ではイメージの身体はアウトドア広告看板で性交をする。

「ローズ」、「東京イン」、「待つ」、「RAASAR」、「オタク」そして「日本日記」でもそのエロスの身体は見られる。しかし、ここでは作者の身体、女流アーティストが主人公となる。時には赤いドレスで、しかし多くは完全裸体で、身体は表現される。世から孤立し、自分自身からも孤立した「戒厳状態」の外国人の身体はその奥底の内部をによって東洋と西洋の文化を彷徨うエキゾチックな冒険へと観覧者を誘導する。死に繋がる自己犠牲の手段である刀と真ん中に穴の開いたスプーンの間には逃れるものが象徴される。それらは、そして最も深い沈黙を表す。究極のエロス、死と悦楽、改新と。

レイチェル・ロザレンのビデオ作品では現代人の最も奥底の条件に触れることができる。そのためにはアーティストは独特な詩的戦略を駆使する。それは、多くの場合、ストーリーの単純性を切断し、断片的で多義的な空間を設定することにある。表現手法としてロザレンはよく同じシーンを異なったコンテクスト、異なった作品で再利用する。ある意味で、作品ごとに一貫性を表すことにもつながる。穴の開いたスプーンは「レッド・ドリームス」、「東京イン」そして「オタク」にも現れる。性交をする身体も「かがやき」、そして「IMMORTALITÀ」に出現する。時にはアグレッシブで騒動に満ちて、現代社会の狂乱した日常を表す一方、失神させるほどの優雅さも時には調和させ、深い沈黙によって、レイチェル・ロザレンの創作過程は展開する。

コルプス・ウルバヌス

「ボードレールにおける第二帝政期のパリ」ではヴォルター・ベンヤミンはフラネール(遊歩者)を近代都市におけるアレゴリー的形象と指名している。フラネールは都市の全ての意味性を保持し、その過去と現在、その秘密と密議、そしてその根源にいたるまでの都市を知り尽くす。路地や地下道を遊歩するフラネールは特に娼婦に着眼する。肉体を商品化することによって、現代の矛盾と本性の性質を現す娼婦たちは同時に主体でもあり客体でもある。フラネールにとっては、娼婦が売る商品は最も刺激的なもので、エロスの肉体の重商主義を象徴する、現代都市と資本主義の崩壊の最も具体的な統合である。

娼婦の像に都市は自らの顔を見る。現代都市はエロスの肉体であり、資本主義の退廃により商品として売買される。同時に、娼婦は女性であることから、自然と調和する関係を生むことが期待される。退廃されてはいるが、それは母のイメージでもあり、創生そして、再生を起こす原動力でもある。

レイチェル・ロザレンのビデオ作品ではこうした意味を含む場合が多い。特に「かがやき」、「IMMORTALITÀ」 と「no_places」のように、現代都市を背景にエロチックな内容を紹介する作品ではそれが披露される。それらの作品では都市自体がエロチックな肉体となる。現代社会の倒錯した資本主義的ゲームの受け皿となる都市は、それらの作品では娼婦のごどく、肉体を売り、廃墟に焦点を当てることによって、現代社会のデカダンスを表に出す。

娼婦都市を最も露出している部分はビルのファサードにおける野外宣伝のエロチックな肉体表現である。都市空間を占めるそのスケールは膨大なもので、一種のハレーションが起きる。ベンヤミンはこれは一種の冒瀆的なイルミネーションだという。それは純粋な革命的な行為であり、現代都市の最も奥底の性質を覗き込む機会をつくってくれる。

「IMMORTALITÀ」ではサンパウロとローマの都市像が亡霊のような廃墟を通じて対話する。現代における恐ろしい時間の経過のスピードを表すものである。しかし、それはすべての都市における普遍的な性質でもあろう。崩壊とデカダンスのバイタリティ、死の匂い、廃墟によって都市は構成されているのではなかろうか。廃墟は都市を支配する事故の、行き違いの、圧制の復習ではなかろうか。廃墟はそうした都市の幻想的な側面を表す一方、肉体都市として再現する可能性に希望を注ぐ支持体でもある。

その希望、あるいは待機に、ロザレンの「グラス・オフ・エアー」は我々を導く。この作品では二人の女性の絡み合いによるエロチックなダンスに、「かがやき」と「IMMORTALITÀ」の映像が投影される。それらの肉体は映像によって貫通され、掘削される。欠陥する異性の肉体を求め合い、欲情と狂気に満ちた身体は欠ける身体との結合を求める。

沈黙の身体
「東京イン」、「レッド・ドリームス」と「オタク」では、内向的な雰囲気の中、エキゾチックな環境へ誘われる。日本人形、和服が東京のシーンと東京の都市像が初めてヌードで登場するアーティストのイメージと交差する。時には赤いマントを覆い、多くの場合穴の開いたスプーンを握り、それは正に逃れるもののメタファーであり、エロチックなゲームが展開される。その作品群の決定的な行為は身体の発露により、バタイユいわく「自己自身を振り返ることを超越した自己を存続する可能性の追求」に基づく行為でもあろう。「ローズ」、「オタク」そして「日本日記」ではその裸体は、非連続の存在に対抗するコミュニケーションと感染の姿勢を表す行為でもある。「オタク」では欲情に溢れ狂気に近づく女性であい、「日本日記」では自己犠牲に体を提供する女性である。

新作「RAASAR」では、その終わりなき追求は沈黙に変貌する。イメージは極力スローリーに重複して行き、愛する肉体の欠乏は失神させるほどの砂漠の暑さと砂の間に顔のイメージによって現れる。「RAASAR」では、ミニマリストな環境設定により、自己犠牲と完全なる身の捧げの状態を再現する。バタイユいわく、「その深い沈黙の瞬間に、その死の瞬間に、存在の一体化が明らかになる」。その瞬間に失われた合体に行き着き、至高の永遠性に達することとなる。